唐招提寺

 せんとくんで賑わいだした平城京遷都1300年ということで、奈良に関する書籍が書店のコーナーを飾ることが多くなっていますが、ここイトーヨーカドー大森店の書店のコーナーにも、その関連の書籍が集められています。その中で、「唐招提寺 / 別冊宝島」(宝島社 刊)が、なんとなく見やすそうだったので、読んでみました。

 ご多分にもれず、もう、鑑真という名前位しか、記憶にのこっていませんので、なるほど、そういう時代だったんだと、改めて当時の政治・社会状況を認識した次第です。

 当時、僧は優遇措置が取られ税を免れる頃ができたそうで、そのため税を逃れるために勝手に僧になる人が多くなったり、仏教界そのものの堕落もひどくなっていたので困り果て、唐から偉いお能さんを呼ぼうということになったのだそうです。

 よく言われているように、当時、唐からの出国は社会的に困難な時代であったのと物理的に航海の困難さがあったため、日本に来てくれる僧は見つからなかったのだそうです。

 そんな中、誰も日本行きに手を上げない中、当時、唐ですでに位置の高かった鑑真が、業を煮やし日本に行くことを決心したのだということでした。

 案の定、密告による出帆中止や、天候などで4度も日本行きを断念するしかなく、5度目でようやく、日本への上陸に成功したのでした。

 戒律(内面の戒めと社会の規律)を立て直すべく、授戒者として戒壇院を作り授戒を行うようになったのですが、後ろ盾が次々となくなり、また、旧来から日本いた実力者の僧との軋轢などがあったのだそうです。

 やはり、色々苦労されたんですね。

 それにしても、どうして、鑑真は、困難が想定できるのに、幾度となく中断せざるを得なかった日本行きを、身を削ってまで行ったのでしょうか・?

 仏法の普及のため?

 その頃の僧とは宗教家であると同時に、思想家であり、あるいは科学者といったオールマイティな存在だったのでしょう。唐から、様々な品物を持って来ているわけで、そこまで、何故、日本に肩入れしたんでしょうか?

 本人に聞いてみなければわかりませんが、この歴史的な時間軸だけでは分からない、内面の心の動きが知りたいですね。

 そんなことを、なるほどと思いながら読み進めていくうちに、青い目をした僧である、”如宝”という人の話になり、当時の中国の地図を見ながら、シルクロードを通して、西洋と交流が深かったということに気がつきました。

 鑑真の故郷、揚州は国際都市で、多くの外国人がいたのだそうです。だから、青い目をした僧がいても不思議ではなかったのですね。

 おそらく、如宝は、プラハにいたソグド人の系統で、”安如保”ではないかと書いてありました。こちらからの人は、「安とか石」とかという姓を名乗ることが多かったんだそうです。

 この如宝は、鑑真に認められていたとのことで、3戒壇院の一つである、下野薬師寺に派遣されたのだそうです。

 本当に、鑑真をはじめ、これだけの人が、何で、わざわざ日本へ来たんでしょうか?

 考えれば、考えるほど不思議です。

 ところで、安めぐみさんの先祖は、”安”とあるので、もしかして、西域の人? と思いましたが、目が青くないから違いますか。

唐招提寺 (別冊宝島 1685 ノンフィクション)
宝島社

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    Excerpt: 今日は、この内容を調べてみました~~今、有名だからね。(+o+)唐招提寺 、 下野薬師寺 に派遣されたのだそうです。本当に、鑑真をはじめ、これだけの人が、何で、わざわざ日本へ来たんでしょうか?考えれば.. Weblog: 要件事実の考え方と実務 racked: 2010-03-28 10:33
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