御用ジャーナリストの詭弁

 「新潮45 3月号」(新潮社 刊)の【特集】憤懣! 小沢一郎劇場の中の記事を読んで、呆れてしまいました。

 『◆「古舘」「鳥越」「大谷」小沢擁護派ジャーナリストの醜悪/黒井有二』という記事ですが、ここまでひどいとは思いませんでした。

 まず、高野猛の”中小企業の月末なんてこんんもんだ”という言葉尻をとらえ、4億円もの金を何処の中小企業もそうなのかというようなことを言っていましたが、高野が言っているのは、個人の預貯金から会社に金を貸したり、いろいろ操作しなければならないことはよくあることだということで、金額の多寡を言っているわけではなく、中小零細企業では、その資金繰りと帳簿づけの間には、いろいろな操作をしなければならないこともあるということを言っているのに、何か、4億円と言う額にすり替えて文句を言っていますね。

 次に、検察のリークに関して、リークと言うならば、これがリークでという証明をしなさいというようなこと言っていました。

 大谷にも言っているではないですか、取り調べた内容が記事になるということは、検察しかわからないのだから、リークだと。じゃぁ、逆にリークがないと、どう証明できるんでしょうかね。

 そもそも、元検事の三井さんも言っているではないですか。リークはやったと。

 また、検察が起訴しなかったから無罪だとか、ということではないというようなことで、検察の起訴とか起訴ではないとかで有罪かどうかが決まるのは、それこそこわいというような詭弁を弄していましたね。

 問題にしているのは、検察に調べがあったから怪しい、おかしい、犯罪のにおいがするということで、今の日本社会では、その段階で、例えば、政治家なら、政治生命を奪ってしまうことが多く、はたして、そんなことが許されていいのかと移転にあるわけです。

 このように、検察の取り調べを受けたというだけで、社会的な不利な情況に追い込まれてしまうという現実があるということを無視して、さらに、突然、マスコミが、あいつは怪しいと言って、社会的に負のイメージを負わせて社会的に抹殺するということはかまわないのだとう、この黒岩という、本当にジャーナリストなのかと疑ってしまうような感性の人間がいる事驚いてしまいました。

 何故、私たちが、このような検察のやり方を批判しなければならないのかと言えば、相手が、小沢一郎だからという問題ではなく、なんの権力もない、私たち庶民が、突然、検察に取り調べを受け、マスコミに虚像を作成されてしまったら、なすすべもないだろうという、恐ろしさをイメージしているからにほかなりません。

 この黒岩と言う人の論では、検察を批判するには、検察があきらかに間違っているという照明をしなければ批判してはいけないということを言っているに過ぎず、極めて危険な考え方ではないでしょうか?

 検察と言う国家権力に拮抗する権力を、私たち個人が持っているんでしょうかね。

 だから、国家権力はオープンでなければならないし、証明責任は、国家権力側になければならないのではないでしょうか?

 今、まさに、逆に、マスコミと一体となった検察が、証明責任を被疑者に仕立てた側に転化して、逆攻撃しているという構図に危機感を抱いていえうのは私だけではないのではないでしょうか。

新潮45 2010年 03月号 [雑誌]
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