マイ・ロスト・シティー

 「マイ・ロスト・シティー」(スコット・フィッツジェラルド 著/村上 春樹 訳/中央公論社 刊)を読み終わり、1920年代に生きたフィッツジェラルドの時代に翻弄される姿が浮かび、ここに収められた短編に、過去の栄光と安住に思いをはせる主人公に重ね合わせた悲しみにひきつけられてしまいました。

 最初に、訳者である村上 春樹の『フィッツジェラルド体験』という章があり、それを読んでしまってから本編を読んだので、いささか、訳者の思い入れがこちらにも影響を及ぼしていたのかもしれませんが、自分でどうにもならない人生の流れを感じざるを得ませんでした。

 極めつけは、『アルコールの中で』という話で、どの看護婦も嫌がる看護相手であるアルコール中毒者の漫画家の担当となった看護婦が、一旦は、もう担当はいやだと思って手配をする女性(ミセス・ヒクソン)のところへ行き、まさに、誰もが見たくない人の看護をすることこそが、看護魂しいに違いないと考え直し、再び、アルコール中毒の漫画家のところに派遣された時の場面にあります。

 「私がここにいると、あのお酒が飲めないってわけね。」

 彼女がそう口に出してから、彼の視線の先にあるものが酒壜でないことに気づいてはっとした。彼が眺めている場所は、昨夜彼が酒壜を投げつけたあの片隅だった。彼の弱弱しく反抗的に見える整った顔をじっと眺めたまま、彼女はそこに目をやることもできなかった。彼の眺めているその先に立っていたのはそのものであったからだ。彼女も死というものを知らぬわけではなかった。耳に聞いたこともあれば、そのまぎれもない匂いをかいだこともあった。しかし人間の体にまだ入り込まぬ独立した死に出会ったのははじめてのことだった。

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 翌日、彼女はミセス・ヒクソンにそれを伝えようとしてみた。

 「どんなに一生懸命やったところで、それを打ち負かすことなんてできないんです。たしかにこの人は私の手を摑み、ちぎれるぐらいにねじりあげるかもしれない。でも、そんなことはたいしたことじゃないんです。本当にたまらないのは横にいながら手を差し述べることもできないってことなんです。何をしたところで結局は人を救うことはできないという無力感なのです。


 そうなんです。私たちは(私は)、人に何かしてあげたような気になっている時がありますが、結局は、その人の抗いようのない運命? ではないかと思ってしまいます。

 自分の、子や妻にすら、何もしてやることができない、ましてや他の人にたいしても、何もしてやることのできない、無力感を感じざるを得ません。

 『悲しみの孔雀』では、仕事を失い、妻も余命のわからない病気で入院し、家を売り、子供の学校を著名な私立学校から公立学校にさせるしかなく、没落していく家族の姿を描いていますが、娘が学校で問題を起こし、退学せざるを得なくなります。父親(ジェイソン)は、娘(ジョー)をしかるでもなく問い詰めるでもなく、自分が教えうという決意で、はじめて、勉強を見てやることになります。

 ・・・・・・・・・・・。ジェイソンは居間に腰をおろしシーザーの『ガリア戦記』を取り上げた。

 「神おも人をも恐れぬスイス人たちは、受難の悲劇に・・・・。」

 「いったい俺は何を恐れればいいんだ?」ジェイソンはそう思った。戦争で私が率いたオハイオの青年たちは八人が八人ともフランスの馬小屋の中で死んだ。生き残ったのは俺ひとりきりだった。それも左の肩先を僅かに弾丸のかすれられただけで。

 神おも人をも恐れぬスイス人たちは、受難の悲劇に・・・・。


 今、まさに受難の時代に、幾人のジェイソンがいるのか、と思ってしまったのです。

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)
中央公論新社
フランシス・スコット フィッツジェラルド

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作品作者そして読者も ...
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スコット・フィッツジェラルド

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傑作これは本当にすば ...
短編は基本的に好きで ...
期待したのですが・・ ...
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