数値化した評価は正しいのか?

 「ZAITEN 7月号」(財界展望社 刊)を見てみると、特集が、”大学「絶対絶命」 ”となっていました。特集の目次を抜き出すと次のようになっています。





国立:“地方大学は破綻寸前”拡大する「経営格差」
国立:“地方大学は破綻寸前”拡大する「経営格差」
私立:“財務・資産運用の泥沼
私立:“総定員充足率が示す「危ない大学」
公立:財政難に受験者減 法人化でトラブル多発
文部科学省を悩ませ続ける東北大学総長「論文不正」疑惑


 国立大学が独立行政法人化された後の同窓会の会報誌を読んで見ると、いかに、研究業績をあげ、交付金・補助金を認めさせるのかといったことに苦労している姿がにじみ出ていましたので、この特集を読んで、本当に大変なのだなぁと再確認した気分になりました。

 やはり、国立大でも旧帝大に有意な査定(?)になっており、地方国立大・旧2期校との格差が開いているということでした。

 仕事の方でも、大学の教員業績・研究業績の登録システムを手掛けたので、これらの交付金・補助金の査定というものが、本当に正しく(?)行われているのかといった疑問がどうしても出てきてしまいます。

 そして、もっとも、おかしいと思ったのは、大学が、会社経営の合理化と同じような方法で、大学整理を行っていいものだろうか、そして。その判断の基準となるものの数値化というものだけで、大学というものを判断していいのだろうかという疑問でした。

 今、すぐに金になり・競争力があるものがいいものだという基本的な発想が、大学というものにはなじまない、やり方のような気がして仕方ありません。

 数値化できない要素をいっぱい抱えて、学問・文化を形成していくことこそが重要なのではないかという気がしてしまいます。学生の教育の仕方にしても、即戦力重視になっていく姿を見ていると、日本という国は、50年・100年先の人材を作らなくていいのかと思ってしまいます。

 確かに、運営上の無駄をなくすことは必要ですが、そえと、大学が何を重視した組織なのかということとは、判断する移転が違うのではないでしょうか。

 たてば、地方うと大学との結びつきを深めた研究とか、地道で息の長いものを育てていくという観点がなければ、人材が育成されないような気がして仕方ありません。

 象牙の塔に組織が陥ってしまうという弊害と、研究という引きこもらなければこととを分けて考えなければならないのではないでしょうか?

 このバランスを判断するのが、学問・教育に関する国の基本的な方針だと思うのですが、残念ながら、日本では、何も聞こえてこないですね。ただただ、企業のように合理化と金儲けだけを目的とした組織になることだけが求められているような気がします。

 始まった「大学淘汰」 聖トマス大「敗戦の弁」に見られるように、大学の崩壊が始まっているそうで、ひとつには、学生人口が少なくなっていくのはわかっていたのに、つぎつぎと大学の開校を認めてきた責任はどこにあるのかと思ってしまいます。

 これも、小泉改革の成果?

 郵政民営化では、私の嫌いなオリックスへのかんぽの宿の不明瞭な売却の問題にはじまり、実は、ゆうちょクレジットが西川社長の終身母体である三井系の三井住友カード仁きまったいきさつに関しても、決定を決めた人たちの中に、三井住友出身がいたという、摩訶不思議なことがあるのだそうです。

 鳩山前総務大臣ではないですが、オリックス宮内といい、このゆうちょクレジットの件といい、西川社長、三井純友、オリックス、小泉、アメリカという出来レースに思ってしまうのは私だけではないと思います。

 大学の問題、高齢者医療の問題、ゆうりょの巨額な預金収奪の問題といい、ただただ、利潤という数値を金科玉条にしている者たちの悪政ではないでしょうか?



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